正あい染 「松阪もめん」
五世紀の後半、現在の三重県松阪市に渡来した「漢織(あやはとり)」や「呉織(くれはとり)」によって、日本で初めて紡織のメカニズムが持ち込まれました。その後は高度な技術によって、当時の日本の一大紡織の中心地となり、さらに六九八年、天照大御神(伊勢神宮)に織物を献納することを義務づけられることになります。十五世紀になると、エジプトやインドを原産地とする「木綿」が日本に伝えられます。暖かく丈夫な木綿は「天下の霊財」とまで讃えられ、良質な木綿を栽培するのに適した松阪市の土壌と、古代よりの高度な紡織技術が出会い、十六世紀初頭に「松阪木綿」が生まれました。その後は、江戸(東京)に店を構えた三井高利(越後屋、のちの三越)や太田利兵衛(松坂屋)、小津清左衛門(現小津和紙)、長谷川次郎兵衛(丹波屋)など、二百軒ほどあった呉服屋の実に七割を占めた松阪商人の才覚と、それを織りあげる松阪の女性たちの美意識によって、当時の江戸の人口の半分に相当する、年間五十数万反の売り上げを誇るほどの一大衣料革命を巻き起こしました。
松阪木綿の特徴である縦縞は「松阪縞」とも言われ、ベトナムから渡ってきた「柳条布(りゅうじょうふ)」がそのルーツだと言われています。「柳条布」は、文字通り、柳の葉の葉脈のような細い筋模様で、「千筋(せんすじ)」や「万筋(まんすじ)」などと呼ばれる松阪木綿の最も古典的な柄です。現在でも、歌舞伎役者が縞の着物を着ることを「マツサカを着る」と呼ぶことからも、縞といえば松阪木綿が代表的な存在であったことがわかります。気質や態度、身なりなどがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気があり、無駄に飾りたてず、派手に目立たぬことを「粋」と呼び、その「粋」を誇りとした江戸の庶民にとって、すこし離れると地味な無地に見えるが、よく見れば繊細なすっきりとした縦縞が走る松阪木綿は、正藍染めの糸を使い、洗うほどに深みを増す藍の青さを連ねた縞模様と素朴な風合いとが相まって、まさに「粋」の象徴でありました。
多くの松阪商人の才覚によって江戸の町には松阪商人の呉服店が連なり、まさに江戸の大ヒット商品となった松阪木綿ですが、明治時代に入ると次第に着物を着る習慣も少なくなり、松阪木綿の生産も大きく減少していきます。生産地である松阪に、ひと頃は千をも数えた織元ですが、現在はたったの一軒を残すのみ。この一軒だけで松阪木綿の全生産を支えています。丸川商店では、この最後の織元(御糸織物株式会社)と協力して、松阪木綿の継承と再興に取り組んでいます。
現在、松阪木綿の紡織習俗は国の無形民俗文化財として見直され、見事によみがえりつつあります。五百年もの長い歴史を持つ松阪木綿ですが、その魅力は今も決して衰えてはいません。私達は「粋」の精神に基づき、独自のセンスによってアレンジした作品を作っています。普段の生活の中でも違和感なくお使いいただけるような商品作りを心がけ、より多くの方に松阪木綿の魅力を知っていただけるよう、試行錯誤を繰り返しながら今後も努力を続けてまいります。古人は言います。「木綿は一日も欠くべからざる宝物、霊財なり」と。ともすれば忘れ去られてしまいそうなものですが、何百年、何千年経とうとも、人の本質が変わることはありません。江戸の庶民が誇りとした「粋」の精神は、今もこうして、あなたの手に、渡されていくのですから。